永野のりこ先生が、随分懐かしい話をツイートされていて、思い出して笑ってしまいました。

 なんのことかと言うと、近代麻雀オリジナル1996年2月号に『親待ち千点棒』という読切を描いた時の話です。

 

 正月早々の発売の号なので1995年の年末が〆切だったんですが、原稿全く上がらず、年を越してもまだ出来ず、正確な日にちはもう忘れてしまいましたが正月四日とか、とにかく印刷所の仕事始めのその日の夕方までには入稿しないともう落ちるみたいなギリギリの状態になってしまいました。何やってんだ‥‥

 正月二日(だったかな‥)には板垣久生さん(『甘い水』原案協力)に手伝いに来てもらって、まあこの時点で駄目過ぎるんですが、それでも間に合いそうもなく、そのマジ〆切前日の深夜になっても真っ白なコマだらけ。もう後がない。にっちもさっちも行かなくなって、他に頼る当てもなく、

( 誰か背景描ける人‥‥な‥永野さん‥に来てもらう‥か‥、いや、いくらなんでもお世話になってる少年キャプテン時代からの先輩に、それも正月松の内も明けないうちに今から手伝いに来て下さいなんて言えるわけがない‥‥しかし呼ばないと確実に落ちる‥‥)

私「ど、ど、どうしよう」

板垣さん「(冷静に)呼ぶしかないよ」

というわけでそのデッドラインの日の朝っぱら9時頃に、永野さんに泣きの電話をかけたのでした。ああ、今思い出しても書きながら冷や汗が出る。

「あ、明けましておめでとうございます‥‥‥あのぉ‥あのですね‥‥実は今日〆切で‥‥ で、い、今からあのぅ‥‥」

というとんでもない電話に怒りもせず永野さんは、「分かった」と言ってすぐに1時間ほどで駆け付けてくれたのでした。しかも使えそうなトーンまで持参して!

 そこに既に正月返上の編集さんもやってきて、「あの、こちら永野のりこ先生です」と紹介すると、えっ?!と驚いていました。そらそうだ。

 

 狭い部屋は描き手三人でいっぱい。ほんでもう原稿を編集部に持ち帰って作業する時間的余裕もないので、うちのアパートの2階の部屋がたまたま空いていて、たまたま私が合い鍵を持っていて、たまたまポツンと机も置いてあったので、編集さんがその部屋で作業するという状況になりました(私の部屋は1階)。

 出来てる原稿を我々からかっさらっては写植吹き出しの中の印刷された文字。当時は紙に印刷された写植文字を切って原稿に貼り付けるというアナログ作業でした)を貼り、出来たらまた別の原稿を二階に持っていく、という状況。

 真冬の1月の寒空に電気もガスも通ってないボロアパートのホコリの溜まった空き部屋でコートを着たまま独りで写植貼りする編集さん(女性)。階下には何の因果か正月早々他人の原稿を手伝う漫画家二名と全ての元凶の私。

 

 永野さんは実は他人の原稿手伝うの初めてと笑っていました。申し訳なさを押し殺し、もう色々お任せでモブやら背景やら描いてもらって、トーンとか仕上げもやってもらいました。

 そんなタイムリミットが迫るギリギリの中、「ここ、空お願いします」という所に、永野さんは持参された空トーン(空の雲が写真っぽく印刷されたスクリーントーン)をササッと貼って下さったのです。

 それを。私は。

 切羽詰まった状況で良かれと思って貼ってくれたのは承知しながら、こともあろうか空トーンがただ嫌いというだけで、私は最後の最後にそれをこっそり剥がしてアミトーンを貼り直して雲を削ってしまったのでした。時間もなく、みんな目が血走ってる状況なのに。結果、全然上手くもないのに。

 ほんで今見返すと、そんなことをしておきながら他のコマでは結局空トーンを使ってるコマもあるのです!  けっこう大ゴマで。嫌いとか言っといて、そこは諦めて貼ってるのです。今見返して自分で呆れてしまった。なんなんだこいつは。俺だ。馬鹿すぎる。

 後で気づいて永野さんは、あ、と思ったはずで、お前はこの状況で何考えてんだ!と怒っても当然ですが、優しい永野さんは笑い話にしてくれました。

 

 結果、夕方に編集さんは原稿を持って印刷所に直行し、ギリギリ間に合いました。

 板垣さんにもガッツリ徹夜させてしまっていましたが、永野さんも板垣さんもよかったよかったと笑ってお疲れ様~と帰っていきました。

 そんな1996年の正月の話でした。

 

 ああ、なんか書いてて今更改めて自分にゾッとする。思い出して笑ってる場合じゃねーよ、俺。

 関係者の皆さん、あの時は本当に申し訳ありませんでした。本当にご迷惑をおかけしました。人に迷惑をかけるのは毎回なんだけども‥‥

 本当にありがとうございました。

 

 

 そんなこんなのボロボロの漫画でしたが、一、二年後くらいに同じ近代麻雀オリジナルに再掲載されたりしました。何かの代原だったのでしょうが、二回も載せてくれて嬉しかったなぁ。協力してくれた皆さんのおかげです。

(画像はその再掲載時の誌面から)