小説は、映画で杉浦直樹が演じた別荘の管理人が主人公で、その「私」の一人称で語られます。出てくるのはほぼ「私」と「青年」と「S」だけで、映画では一応名前があったメインの二人「私」と「青年」(映画の沢田研二)は最後まで名前も語られない。
一番驚いたのは、「ときめ」くのは「私」なのでした。まあ主人公だからそりゃそうだ。「私」が青年との奇妙な共同生活の中でいつしかときめきを感じてクライマックスへと向かってゆくのです。
映画を観て、このジュリーは一体ときめいていたのだろうか‥‥‥? と若干疑問だったりしてましたが、ジュリーじゃなかったんだ! と合点がいったのでした。
小説の「青年」がときめいていたかははっきりしません。ときめきではなかったのではないでしょうか。うーん。
というか映画は原作小説の「ときめき」を「私」から「青年」にアダプトして再構築したものなのかもしれないなあ。その時点で工藤(青年)にとってのときめきはああいうひんやりした減感されたものに必然的になったってことかなあ‥‥ とか思いました。
映画とは違うラストシーンですが、妙に映画と同じような読後感でした。ラストは知っていたのにショックが強かったです。放り投げられたようなダメージでしばらく呆然としてしまった。
面白かったです。かなり「私」に感情移入してのめり込んでしまった。これからどうすればいいんだ、「私」は~~~。